ミンロウドで睡 (ねむ) る

ミンロウドで見たものについて文を書きます. 書いたものはどんどんここに積んでいきたいと思います (更新速度は多分とても遅いです).

「障害者に優しいものは健常者にも優しい」 ユニバーサルという方向はおかしい.

私は, 所謂ユニバーサルデザインというものの優位性, それを施行すべきというだという事を説明するときに成される,「障害者に優しいものは健常者にも優しい」という理由と, その理由を元に形成するような構想が嫌いです.
障害される当事者の中からでも聞かれる表現ではありますし, それらの当事者の方や主張の全てが嫌いだということではないのですが.
理由は3つほどあります.
第一に, 多数派と少数派の間では利害は対立するという齟齬が生じている側面から目を背けるという方針は, 少数者の権利の中でも多数派に都合の良くないものに対しての主張をふさいでしまう作用があります.
第二に, あえて対立は解消されてはならない側面があります *1. 逆に考えると, 対立を「どっちも立つ」という意味として取るならば, 立つ者が一つしかないというのは不健全です. 別の言葉で言えば, 対立は解消されるべしというならば, マジョリティは立たないこと, 誰も立たないことを受け入れなければならないと思います.
第三に, 劣位の者に対する人権侵害を相補する作用にまで健常者を意識し尊重しなければいけないということ自体が一種の搾取です. 少なくとも健常者の特権すべてに障害者が意識し尊重されることとバーターでなければその様な態度をとっても格差が広がるだけでしょう?
荒っぽく言えば,「ひとは排除してきたし今なお排除しているのに, 相手の権利の話まで “俺が俺が“ 言うんじゃないよ/言わせるなよ」 ということになります. 第一の理由で言ったこととほぼ同じことなのですが,「障害者に優しいものは健常者にも優しい」という言説だけが大いにもてはやされるというのは,「健常者に優しくなければユニバーサルデザインではないか, 目指すべきではない」 と, そうほのめかすような作用があるのです *2
病気や障害性は他の人と比べてどうか, という相対性の中にしかないです, だからこそインクルージョンや「健常者に優しいユニバーサルデザイン」に異議があります.「相対的に」持っていない者がいることが, 障害されること・障害される者がいることの問題の本質 (の一つ) なのだから. 単純に書けば,
「これはAを優遇, あれはBを優遇」, とかならば文化間対立やその不均衡の案件になるかもしれないけれど,
「これはAを優遇, あれはAとBを優遇」, だと格差が全く解消しませんよね. それを分かっている? と聞いてみたいのです.
換言すれば, その様な優位者にも優しい補填を続ける限り, 少数者から社会に対する要求は無限に退行もとい無限に前進するのではないでしょうか *3. しかしながら, それは前進のようでいて空動しているだけかもしれません. *4
「障害者に優しいものは健常者にも優しく」 てはいけないという考え方を考えます.
常に健常者の地位を配慮する施策では「障害の相対的な側面」という重要な物事の解消には有効性がないし, かえって今ある格差を所与で解消せざるべきものとして固定する言説としての作用があることを, 私は無視できません.
覇権の劣位 (サバルタン*5 ) にあることと障害される者であることと貧困であることは一種の同義であり, 相対的な貧困も貧困です. そして (最低でも) 恒常的な状態のそれは解消しなければいけません. 

 

*1:後段でまた少し書きます.

*2:「そこまでは言っていない?」 なるほど, では青い芝の会のように検討してみることにしましょう. 「どこまでは」言っているのか?

*3:少数者からの異議が尽きる事が無いこと自体は肯定されます.

*4:別の観点から見れば, 社会運動が覇権による方向の修正によってクィアされているともとれる.

*5:広義