生理的特性は社会的特性である
マイノリティは (科) 学者や医者, 研究者等によって
「マイノリティの特性とは何か?」という問いを立てられて探求されます.
その分析が対象者の身体と結び付ける形で論じられた説明法は「生理的特性」と呼ばれます. 神経発達の特性やセクシュアリティも生理的な特性です. そして, 生理的特性は科学的な研究の作法に乗っ取っているという事を根拠として, 「揺るがぬ事実」「異論なき現実」だという風に扱われる傾向があると思います.
しかし, 生理的特性とは本当に誰かの身体の内部で完結して属人する現実なのでしょうか? 私は「生理的特性は社会的特性で (も) ある」とみています.
例えば, 自閉者はナイロンの服を苦手と感じる (とされていたり) します. これは生理的特性ですが, 一方でナイロンを被服する動物は地球上で人間しかいません*1. 身体のありかたを探したり論じたりしようとしても, 文化や環境の制約と影響を切断することはできないと思います. というか私たちの身体等に対する認知の枠組み自体に社会における立ち位置というものが背景として織り込み済みで成立しています.
身体的特性について論じた研究結果に触れると,
「(私達とあの人達には) 生理の差異が歴としてあるからそれが社会的な地位 (の差) を演繹するのだ」
=身体的特性があるから社会的な現象を生じさせるのだ
(障害学の文脈で言えば, インペアメントがあるからディスアビリティが起きるのだ)
みたいな考え方になりがちなように見える, そう言う事がほのめかされている事が多いようにも感じられますが, 私はそれは実のところ逆なのだと思います.ナイロンの服があり, それを作る文化があって, それを被服することを求めてそのやり方が合わない人と齟齬を起こす, それがあって初めて「ナイロンが着れない」という生理的特性が浮かび上がらせられます. 前記の見方は浮かび上がらせられるまでの状況を所与で不作為の経緯として見なしているのがあまりフェアじゃないなと思います.
しかるに, インペアメントはすでに常にディスアビリティであるというのが私の立場です.
…かっちり書き過ぎなような.