ミンロウドで睡 (ねむ) る

ミンロウドで見たものについて文を書きます. 書いたものはどんどんここに積んでいきたいと思います (更新速度は多分とても遅いです).

11/3 第5回Web読書会を開催しました.

11/3に都内所にて第5回Web読書会を開催しました. 

私含めて参加者は3人でした. 

2つの題について言いっぱなし聞きっぱなし形式で3時間弱くらいはなしました.  

 

(1) タイトル: 自閉者と自分勝手なコミュニケーション http://blog.goo.ne.jp/hituzinosanpo/e/2f1b48a4a3e7f8de60ce6eea5d4c47e0

障害のこと・文化のこと・言語権のことについて研究している人のブログです. ここでは, 記事内での「自閉症のひとと接していて、おお、なんて このひとたちのコミュニケーションは自分勝手なんだろうと感じたことが ありました。それが わるいと おもったのではなくて、ただ そう感じたのでした。」という語りについて話してみたいなと思いました. 私はこの表現から攻撃的だったり嫌だなと感じるような視線は (めずらしく) 感じなかったのですが, 私はこれを読んだ後, むしろ逆にこの間自閉でない定型的な人の振る舞いを見て, 「おお、なんてこの人 (のコミュニケーション) は自分勝手なんだろう」とただ感じてそれで楽だったことがあったので, そういうことなどについて話がしたいなあと思います.

(2) タイトル:当事者研究の可能性*1

http://synodos.jp/welfare/6180

べてるの家で始まったと言われている、当事者研究は今や全国に広がりを見せています。 私も、何度か参加させて頂いています。今回は、当事者にとって当事者研究がどんな効果を持っているのか、真剣に語り合いたかったので、選定しました。

 

*1:この紹介文は提案してくださった方の物です.

合理的配慮は何ではないか (ver.1.0)

合理的配慮 (reasonable accommodation) という言葉と概念と現在進行形の現象があります. 

私はいくつかの側面からこの概念については懐疑的ですがそれは後日別の記事で増補したいと思います. 

それはさておいたとしても, 今現在検討されている「合理的配慮」というものは随分と健常者にとって都合のいいものとしてゆがめられている*1 なあという感じがしています. 

私の考える「合理的配慮とは何か」を私の中で洗練するために, 

私の考える「合理的配慮は何ではないか」について書いてみたいと思います. (結論までが若干長いのでさっくり内容に移りたい人は 下の本文へ.) 

 

まずは, 私以外の考える「合理的配慮とは何か」の一側面について, 

障害者の権利に関する条約 | 外務省 から (引用内強調筆者). 

第二条 定義

 この条約の適用上、
 「意思疎通」とは、言語、文字の表示、点字、触覚を使った意思疎通、拡大文字、利用しやすいマルチメディア並びに筆記、音声、平易な言葉、朗読その他の補助的及び代替的な意思疎通の形態、手段及び様式(利用しやすい情報通信機器を含む。)をいう。
 「言語」とは、音声言語及び手話その他の形態の非音声言語をいう。
 「障害に基づく差別」とは、障害に基づくあらゆる区別、排除又は制限であって、政治的、経済的、社会的、文化的、市民的その他のあらゆる分野において、他の者との平等を基礎として全ての人権及び基本的自由を認識し、享有し、又は行使することを害し、又は妨げる目的又は効果を有するものをいう。障害に基づく差別には、あらゆる形態の差別(合理的配慮の否定を含む。)を含む。
 「合理的配慮」とは障害者が他の者との平等を基礎として全ての人権及び基本的自由を享有し、又は行使することを確保するための必要かつ適当な変更及び調整であって、特定の場合において必要とされるものであり、かつ、均衡を失した又は過度の負担を課さないものをいう。
 「ユニバーサルデザイン」とは、調整又は特別な設計を必要とすることなく、最大限可能な範囲で全ての人が使用することのできる製品、環境、計画及びサービスの設計をいう。ユニバーサルデザインは、特定の障害者の集団のための補装具が必要な場合には、これを排除するものではない。 

つまり,「障害に基づく差別」である要件の一つに「合理的配慮の否定」も含まれ, 合理的配慮とは

「障害者が他の者との平等やすべての人権を確保する際に必要な

変更及び調整 (accommodation) であり, かつ

均衡を失した又は過度の負担を課さないもの (reasonable)」

であるという事ですね. 正直いろんな問題を感じる理念ですが*2, そのミニマムな論理すら不具にされたような解釈と運用も多く通用しているなあと感じています. 

合理的配慮 - Wikipedia

合理的配慮(ごうりてきはいりょ)とは、障害者から何らかの助けを求める意思の表明があった場合の、負担になり過ぎない範囲の、社会的障壁を取り除くために必要な便宜のことである。障害者権利条約第2条に定義がある。

合理的配慮は、障害者一人一人の必要性や、その場の状況に応じた変更や調整など、それぞれ個別な対応となる。障害者が合理的配慮を求めた場合、その要求は広く一般の人に法的拘束力を持つ。過度の負担を立証できない限り拒否できない。 

wikipediaの説明だと, 合理的配慮は

・障害者助けを求めるもの

・負担が過度になっていないかという要件を満たした範囲でだけ認められるもの

という論法になっていますね. 厳密にはそういう読み取りだけが出来る書き方にはなっていないはずなのですが, そういう風に解釈と運指されることがとても多いのではないかと懸念しています. その方が健常社会にとっては有利ですし, これまでの社会や自分たちのありかたを検討しなおすという視点を持たなくてもいいかもしれないからです. 

 

ですので, 私はそういう (障害者が条約の策定に関する議論を通じて訴えてきた事を無かったことにするような)「合理的配慮」という語の使われ方をするような未来が来ないことを望んで, 私の考える「合理的配慮ではない」ものについて書いてみたいと思います. 

 

本文: 

合理的配慮のプロセスとは, 

 ・私たちの思考を停止したり枠組みにはめて省力するための道具ではありません.

 カミングアウト等と同様に, 終わりのないプロセスです.

・障害者がコストを払って導入しようと用意したものを難癖をつけつつ寛容するプロセスのことでもありません.

たしかにこれは障害される人たちを対象としたaffirmative actionに相当する物ですが, 障害者差別の問題は障害者の問題であるというのと同程度あるいはそれ以上にこれまでの社会とそれによって受益している人と組織の問題です. 

「いかに私たちが障害者を寛容するか」というイシューではなく, 「いかに私たちの差別的構造を解消できるか」というイシューに向き合ってください. 

・合法的な排除の線引きの要件を策定することでもありません. 

 Accomationとは「調整」という意味の方が近いです. 「配慮」という訳語は一方的な「配慮する者ーされる者」という (現実にも即していない) あらかじめ定まった地位の構築を想像させるものです. 

根本的に必要不可欠な事として,「何が愛と正義かを判別して施す私たち」という幻想*3 から降りて, 「なぜ合理的配慮という概念が提起されたのか」という経緯を忘却することなく, 「差別の解消という1つのイシューを (利益相反する, これまでの*4 障害する社会から利益を受けてきたもの, 不利益を得てきたものそれぞれの立場から) 取り組む」という観点に変更する必要があります. 

 

合理的配慮 /reasonable accommodationとは,「対等を実際的に実践する事を目的としてオルタナタィブを模索する, 終わりのない*5 プロセス」のことを差すのだと考えます.

 

ver 1.0 (draft) 

*1:crippled

*2:2回目

*3:とそれを支える権力

*4:現在の

*5:もしあなたが, この世界や人間の世紀, あなたが存命中に人権を行使できる期間といったものに終わりを想定していないならば, 当然障害者の生きる世界や時代にも終わりは想定し得ません. 

「鎮める」ヘゲモニーという概念

ヘゲモニー (覇権, 覇権主義) の暴力性・問題のイメージとして, 私たちは
明白 *1に相手を抑圧/恐喝/陥穽/搾取するような, 相手の物理ないし心象に対するオフェンシブな現象・働きかけ・又は制度の構築, を想像することが多いと思われます.
しかし私は, そもそもそれとは真逆に「鎮める」ようなヘゲモニー, つまり少なくとも表層の現象上は

完全に (何かを)「鎮める」という形をとってなされるヘゲモニーというものもあり, それをもっと意識しないといけないのではないかと思い至りました. *2

念を押すと, それは「ヘゲモニーには苛烈な表出とそうではない幾分穏便なものがある」というようなことではありません. そうではなく, はじめから世の中の何かを鎮静化する・無効化する, そういう現象によって覇権が顕現し搾取や加害が働く可能性, 問題が収斂する/させようとするベクトルの現象の中からも覇権の加害を見つけることの重要性を指摘したいのです. 

マイノリティから問題が提起されたり, 社会における歪みや被害の偏りが見いだされたときに,
その様な主張は強烈に「鎮められ」ます. 表層的な運動の現象は「癒されよう, あやされようと」します.
私たちの常識的なイメージとしては, 吹き荒れるような現象は望ましくなく, その様なものを鎮静化するような動きは望ましいもの, そういう風に考えられているかもしれません. 
でも, それは必ずしも常に成り立つことではないのかもしれません.
さらに言えば, 何かが沈められ他は沈められない, そんな現象上ではほんの些細な行為によっても不公正はなす事が出来ます. 

日常に回帰し平常と平静を取り戻すこと,
鎮めること/静まることの中にも暴力・不正義・悪さと呼ぶものは含まれ, それは指摘されるべきなのだと考えます.
ヘゲモニーは鎮める形態をとって顕現することがあるし, 鎮まった現象の中のヘゲモニーの役割や立ち位置というものに気付くということを忘れないようにしたいです.


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*1:あるいは暗黙

*2:鎮めるのイメージとしては某漫画の宝貝の様な発動を想像しています

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藤崎竜_封神演義_太極図 やっぱり問題なら図は謝罪して消します.

9/21 第4回Web読書会を開催しました.

9/21に都内某所にて第4回Web読書会を開催しました. 

私含めて参加者は3人でした. 

2つの題について言いっぱなし聞きっぱなし形式で2時間くらいはなしました. 

 

(1)
http://c71.hatenablog.com/entry/2014/05/15/013411
タイトル: 健常者の「おれは迷惑かけてないという謎の自信」はどこからくるんだろ

発達障害の人のブログの記事です.
個人的に「ああそういう自信みたいな雰囲気の人っているなあ」と思うところがあったので, 今までそういう風に感じた事がある, そう思ったことはない等とみなさまから意見を聴けたら嬉しいです.


(2)
URL:http://www.iti.or.jp/kikan62/62masuda.pdf
タイトル:情報格差(デジタル・デバイド)是正のための取り組み


インターネットに代表される情報通信技術の急激な発展に対し、その技術を使える者とそうでない者の格差は、地域格差・国家間の格差にも当てはまります。
まず、情報社会の恩恵を受けらていない人々は、情報を得た事によるメリットを体感して周知されれば、格差解消の原動力にもなると述べられています。
私自身は、特に地域での"情報格差"に問題意識を持っています。
この国の障害福祉の世界では、いわゆる情報弱者であることを、様々な理由から余儀なくされている人が多い様に感じるからです。
皆さんに聞いてみたいのは、まずはこの国の中の地域で情報格差に晒された人々が、その格差解消に向けて"問題意識"を前向きに持てるにする為にする案などについてです。*1

 

 

*1:この紹介文は提案してくださった方の物です.

「感覚過敏」という見えやすいものに注力して研究されるという傾向から明らかになるもの

発達障害を科学的に探求しようとすると「感覚過敏」という見えやすいものに注力して研究される傾向にあるようです*1.
だから問題だ, という結論には一直線に向かわないのですが,
私は「研究の結果が社会的に障害の内包を形作る」という社会現象性に着目するしそれをよく意識しておきます. またその記述に濃淡が不可避的につけられる事自体によって, 記述された対象のイメージがまた変容するという社会現象性も忘れられべからざるものであるし,「研究」する側もそれを自覚し自他に留保を十分につけるべきだと思うのです.
「感覚過敏が目立つし際立った障害現象だから詳述される」のではなく,「感覚過敏が相対的に研究しやすい*2 から詳述される」, そしてその選好は「研究」側の都合です.

上記からは研究行為には意図しようとしまいとまた望もうと望むまいと2つの権力性があることがわかります.
・広く語り言説を形成する権力. 科学的学問的に正義*3 であることを理由として社会と相手に介入する権力.
・何が語られるべきかという判断に「研究しやすい, 研究に適合する」という理由が優越するという権力. 何を語り何を語らないかを選ぶ権力.

良し悪しを一足飛びに論じることはできなくとも, これもまた現在進行形で構築されつつある「障害の現象」なのだということは確かです. 研究するという事は障害という概念を作るという政治的なものであり*4, けだし「探求するということは政治的なこと. 研究する人は政治する人」です.

*1:例によって, そう言う方向に研究する人を私が全員嫌いなわけではありません.

*2:別の言葉で言えば,「研究」という障害とは関連しない規格によりフィットする

*3:それは閉じている正しさでもあるが, 科学のレベルで, また科学を越えたレベルで方向は差し戻せるものでもあります.

*4:当事者研究だってそう.

「障害者に優しいものは健常者にも優しい」 ユニバーサルという方向はおかしい.

私は, 所謂ユニバーサルデザインというものの優位性, それを施行すべきというだという事を説明するときに成される,「障害者に優しいものは健常者にも優しい」という理由と, その理由を元に形成するような構想が嫌いです.
障害される当事者の中からでも聞かれる表現ではありますし, それらの当事者の方や主張の全てが嫌いだということではないのですが.
理由は3つほどあります.
第一に, 多数派と少数派の間では利害は対立するという齟齬が生じている側面から目を背けるという方針は, 少数者の権利の中でも多数派に都合の良くないものに対しての主張をふさいでしまう作用があります.
第二に, あえて対立は解消されてはならない側面があります *1. 逆に考えると, 対立を「どっちも立つ」という意味として取るならば, 立つ者が一つしかないというのは不健全です. 別の言葉で言えば, 対立は解消されるべしというならば, マジョリティは立たないこと, 誰も立たないことを受け入れなければならないと思います.
第三に, 劣位の者に対する人権侵害を相補する作用にまで健常者を意識し尊重しなければいけないということ自体が一種の搾取です. 少なくとも健常者の特権すべてに障害者が意識し尊重されることとバーターでなければその様な態度をとっても格差が広がるだけでしょう?
荒っぽく言えば,「ひとは排除してきたし今なお排除しているのに, 相手の権利の話まで “俺が俺が“ 言うんじゃないよ/言わせるなよ」 ということになります. 第一の理由で言ったこととほぼ同じことなのですが,「障害者に優しいものは健常者にも優しい」という言説だけが大いにもてはやされるというのは,「健常者に優しくなければユニバーサルデザインではないか, 目指すべきではない」 と, そうほのめかすような作用があるのです *2
病気や障害性は他の人と比べてどうか, という相対性の中にしかないです, だからこそインクルージョンや「健常者に優しいユニバーサルデザイン」に異議があります.「相対的に」持っていない者がいることが, 障害されること・障害される者がいることの問題の本質 (の一つ) なのだから. 単純に書けば,
「これはAを優遇, あれはBを優遇」, とかならば文化間対立やその不均衡の案件になるかもしれないけれど,
「これはAを優遇, あれはAとBを優遇」, だと格差が全く解消しませんよね. それを分かっている? と聞いてみたいのです.
換言すれば, その様な優位者にも優しい補填を続ける限り, 少数者から社会に対する要求は無限に退行もとい無限に前進するのではないでしょうか *3. しかしながら, それは前進のようでいて空動しているだけかもしれません. *4
「障害者に優しいものは健常者にも優しく」 てはいけないという考え方を考えます.
常に健常者の地位を配慮する施策では「障害の相対的な側面」という重要な物事の解消には有効性がないし, かえって今ある格差を所与で解消せざるべきものとして固定する言説としての作用があることを, 私は無視できません.
覇権の劣位 (サバルタン*5 ) にあることと障害される者であることと貧困であることは一種の同義であり, 相対的な貧困も貧困です. そして (最低でも) 恒常的な状態のそれは解消しなければいけません. 

 

*1:後段でまた少し書きます.

*2:「そこまでは言っていない?」 なるほど, では青い芝の会のように検討してみることにしましょう. 「どこまでは」言っているのか?

*3:少数者からの異議が尽きる事が無いこと自体は肯定されます.

*4:別の観点から見れば, 社会運動が覇権による方向の修正によってクィアされているともとれる.

*5:広義

「輝くマイノリティ」とは「迷惑をかけなければいていい」の2015年版かも

最近は障害者でもLGBTでも女性でも「輝いて」「活躍する」「役に立つ」ことを称揚する*1, というスタイルの語りかたが目につきますよね.

もちろん私はそういうのに対してもやもやするのですが, あれって実のところ 「同性愛者はいてもいいよ. 私に迷惑をかけずに生きている限りはね」 と論理構造や抑圧性がかなり似ているのではと思いました *2.

勝手に相手に対して「いて良いか」「良くないか」を宣告する傲慢性とか, 相手のありかたを「自分の快適さや思い込みを維持するに際して迷惑かどうか」という尺度だけで評価する態度とかが *3.

なので, 私は「障害者も社会*4で活躍しましょう」という声掛けは, 「障害者も世の中に存在してていいよ, 私たちに迷惑をかけなければね」を2015年風にマイルドに言い換えたもの, 程度のエンカレッジ*5として見ています.  

 

*1:覇権主義的な社会の構造はそのままにしてなお

*2:「役に立つ~」言説の興隆と入れ替わるように最近はあまり表立った所では目にしなくなった感じなのがまた興味深いです.

*3:自分が他人や全体に迷惑をかけていないのか依存していないのかという視点をうっちゃったままで

*4:社会って何でしょうね

*5:皮肉

生理的特性は社会的特性である

マイノリティは (科) 学者や医者, 研究者等によって

「マイノリティの特性とは何か?」という問いを立てられて探求されます. 

その分析が対象者の身体と結び付ける形で論じられた説明法は「生理的特性」と呼ばれます. 神経発達の特性やセクシュアリティも生理的な特性です. そして, 生理的特性は科学的な研究の作法に乗っ取っているという事を根拠として, 「揺るがぬ事実」「異論なき現実」だという風に扱われる傾向があると思います. 

しかし, 生理的特性とは本当に誰かの身体の内部で完結して属人する現実なのでしょうか? 私は「生理的特性は社会的特性で (も) ある」とみています. 

例えば, 自閉者はナイロンの服を苦手と感じる (とされていたり) します. これは生理的特性ですが, 一方でナイロンを被服する動物は地球上で人間しかいません*1. 身体のありかたを探したり論じたりしようとしても, 文化や環境の制約と影響を切断することはできないと思います. というか私たちの身体等に対する認知の枠組み自体に社会における立ち位置というものが背景として織り込み済みで成立しています. 

身体的特性について論じた研究結果に触れると, 

「(私達とあの人達には) 生理の差異が歴としてあるからそれが社会的な地位 (の差) を演繹するのだ」

=身体的特性があるから社会的な現象を生じさせるのだ

(障害学の文脈で言えば, インペアメントがあるからディスアビリティが起きるのだ) 

みたいな考え方になりがちなように見える, そう言う事がほのめかされている事が多いようにも感じられますが, 私はそれは実のところ逆なのだと思います.ナイロンの服があり, それを作る文化があって, それを被服することを求めてそのやり方が合わない人と齟齬を起こす, それがあって初めて「ナイロンが着れない」という生理的特性が浮かび上がらせられます. 前記の見方は浮かび上がらせられるまでの状況を所与で不作為の経緯として見なしているのがあまりフェアじゃないなと思います. 

しかるに, インペアメントはすでに常にディスアビリティであるというのが私の立場です. 

 

 

…かっちり書き過ぎなような. 

*1:厳密にいうと愛玩動物とか云々ありますが詳しい部分は割愛. 

このブログについて

このブログについて (1.0) 

考えたことについて時々 (=かなり気まぐれ) 記事を書いてためておく場所として使います.
まとめたことについてや, ちょっとした思い付きについて等.

何から書いていこうか考えると始まらないので適当にやっていきます. なので, 話が前後するかも. 

本とか他の人が言ったことから考えてみた事を書くことが多いかもしれません.

関心は
セクマイ関係
通俗発達障害関係
当事者研究
とか.

クィアしたり障害学について考えたりします.